阿野全成(新納慎也)の最期 ネタバレ解説 人物や子孫なども徹底解説!

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第7回「敵か、あるいは」から登場したの新納慎也(にいろしんや)さん演じる源頼朝の弟、醍醐寺の悪禅師・阿野全成(あのぜんじょう)って誰?と思われた人も多いのでは?

新納慎也さんといえばNHK大河ドラマ「真田丸」の豊臣秀次役も印象深いですね。

阿野全成の初登場シーンですが、伊豆山権現にいる政子(小池栄子)、りく(宮沢りえ)、実衣(宮澤エマ)が僧兵に襲われそうになった時に、

「待たれよ。私が風を起こす。その隙に逃げられよ。醍醐寺で修行を20年・・・」

「臨 兵 闘 者 皆 陣 烈 在 前・・・(風は起きず)今日は難しいようです。あとは(仁田忠常に)任せた。逃げましょう!」

とまさかの爆笑シーンを披露した!

そんな阿野全成がどんな人物かリサーチしてみました!

阿野全成の生涯

仁平3年(1153年) 源義朝の七男として生まれる(母・常盤御前)
平治元年(1159年) 7歳平治の乱で父・源義朝が敗死。7歳のときに醍醐寺で出家する。
治承4年(1180年) 28歳以仁王の令旨が出ると寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下る。
同年、兄・頼朝が石橋山で敗れ、房総半島へ逃れる。
下総国・鷺沼の宿所で頼朝と対面(兄弟の中で一番最初に対面)。
北条政子の妹・阿波局と結婚。
駿河国阿野荘を領有し「阿野」を名乗り、鎌倉幕府の御家人に列する。
建久3年(1192年) 阿波局が頼朝次男・千幡(実朝)の乳母になる。
正治元年(1199年) 頼朝が死去。
建仁3年(1203年) 謀反人として捕縛される
同年、二代将軍・頼家の命を受けた八田知家に誅殺される(享年51歳)。

阿野全成は、頼朝が平家追討のために挙兵した際、兄弟の中で最初に駆けつけたといわれている。

源頼朝在世中は、源義経や源範頼のように誅殺されることなかった。

同母弟・源義経が、兄・源頼朝に追われ京に向かった際に、沼津の大泉寺に立ち寄ったとされ、阿野全成と源義経は涙ながらに語り合ったとされています。

1192年、妻の阿波局(北条政子の妹)は、源頼朝の次男・千幡(実朝)の乳母になり、その夫の阿野全成も源実朝の養育も務めたようです。

阿野全成事件

1199年、源頼朝が死去すると、頼朝の嫡男・頼家が将軍職を継ぐが、政治に実権は有力御家人たちに奪われてしまう(13人の合議制)

幕府は頼家派(比企氏)実朝派(北条氏)に分かれて対立を深め、北条時政・義時は実朝を将軍に擁立を画策する。このとき全成は、義父・北条時政の実朝派となっている。

この陰謀を知った頼家は、謀反の疑いで阿野全成を武田信光に捕縛させる。
常陸に配流された後、頼家の命を受けた八田知家に下野国(益子・大六天の森)で誅殺される。

阿野全成の死後

全成の三男・阿野頼全は京・東山延年寺で源仲章・佐々木定綱らによって討たれる。

四男であるが母が北条氏(阿波局)のため嫡男とされていた阿野時元は、祖父・北条時政や北条政子の助命嘆願で死罪は免れ所領の阿野で隠棲することになる。

そしてこの年に北条時政は比企能員を討ち(比企能員の乱)、源頼家は伊豆・修善寺に幽閉され、のちに暗殺された。

阿野氏のその後

三代将軍・源実朝が暗殺されると、次期将軍の座を狙って挙兵するが北条義時の命により追討され、滅ぼされる。
「吾妻鏡」では「謀反」とされているが、討手が差し向けられたため挙兵したという説も存在する。

時元の子孫は数代続いたようだが、南北朝時代以降記録から姿を消しているため没落したものと思われる。

一方、全成の娘(時元の姉妹)と婚姻していた藤原公佐とその娘の子(実直)が公家・阿野氏として繁栄している。
後醍醐天皇の愛妾・阿野廉子(あのれんし)は子孫にあたる。

阿野全成のゆかりの地

 

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