【鎌倉殿の13人】頼朝最初の難敵 相模の大物/大庭景親(國村隼)の人物解説 先祖はあの鎌倉権五郎景政!

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2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」國村隼さんが演じる大庭景親
頼朝挙兵後の最初の難敵となる武将である。
大庭氏は、八幡太郎義家の家人で後三年の役で片目を矢で射られながらも大活躍した鎌倉景政の子孫で、景親は景政の曾孫にあたる。

ちなみに2021年7月23日に開幕した東京オリンピック2020の開会式で、歌舞伎役者の市川海老蔵さんが披露した歌舞伎十八番のひとつ「暫(しばらく)」の主人公こそがその鎌倉景政である。

大庭景親とは

大庭氏は坂東八平氏のひとつ鎌倉氏の子孫で相模国高座郡大庭郷(神奈川県藤沢市・茅ヶ崎市あたり)を本拠地とした豪族。

景親は兄・景義とともに源義朝の家人となり、保元の乱では義朝に従って出陣。
景義・景親は白河北殿の西門を守る崇徳上皇方の源為朝(義朝の弟)と戦うが、強弓の名手である為朝が放った鏑矢が景義の左膝に命中。

膝を砕かれた景義はたまらず落馬、景親は兄を救出して戦場を離脱した。
歩行不能となった景義は家督を弟の景親に譲る。

平治の乱で義朝が敗死すると源氏は没落、景親は平氏に近づき平氏の力を背景に相模国内で勢力を拡大する。

源頼朝挙兵後の大庭景親

以仁王源頼政が平氏打倒の兵を挙げると、大庭景親は足利忠綱らととも平氏の侍大将・伊藤忠清の軍勢に加わり追討にあたりこれを打ち破る。

その後、伊藤忠清から伊豆の頼朝が挙兵を企てているという情報を知らされる。
東国へ戻った景親は佐々木秀義に頼朝討伐について話をするが、佐々木秀義はすでに頼朝と通じており、息子の高綱を頼朝のもとへ向かわせこのことを知らせた。

頼朝は挙兵を急ぎ、伊豆目代の山木兼隆を討つ。
大庭景親は3000騎の軍勢で頼朝軍300と石橋山で対峙、兵力差に物をいわせて大庭軍は圧勝し、頼朝は石橋山山中へ逃れる。景親は頼朝を捜索するが、同族の梶原景時が頼朝の所在を知りながら頼朝を別の山へ導いたため取り逃がしてしまう。

景親は頼朝挙兵を平清盛へ報告、頼朝追討軍の派遣が決まるがなかなか出陣できずにいる間に頼朝は安房で再挙兵、上総広常や千葉常胤等を多くの東国武士を傘下に収め2万騎以上の大軍勢に膨れ上がる。

平家軍と合流するため景親は1000騎を率いて進軍するも頼朝方に阻まれて合流できず、平維盛を大将とする平氏の頼朝追討軍が富士川の戦いで戦わず敗走すると、ついに頼朝に降伏する。

上総広常に預けられた景親だが処刑されてしまう。

大庭景親ゆかりの地

鎌倉権五郎景政とは

平安時代の武将・鎌倉景政(かまくらかげまさ/通称・権五郎)
もとは桓武平氏一族であったが父の代から相模国(神奈川県)鎌倉を領していたことから「鎌倉氏」を名乗る。

源義家に仕え、後三年の役(1083年~1087年)では若干16歳にして参陣、清原武衡の家臣・鳥海弥三郎に右目を弓矢で射られながらも奮戦し武功を挙げる。

景正の目の有様を見た三浦為次が景正の顔を踏みつけて矢を引き抜こうとしたところ「武士であれば戦で死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と激怒し為次に斬りかかる。
為次は陳謝し丁重に矢を引き抜いたという逸話が伝えられている。

鎌倉景政ゆかりの地 「権五郎目洗いの池」

後三年の役の後、鎌倉景正はその武功により現・千葉県野田市目吹付近に知行地を与えられ、目吹を訪れた際に水が枯れることのない不思議な池があると聞きつけ目の療養で利用したところ快癒したと言われている池が千葉県野田市目吹に現存する(「目吹」の地名はこのエピソードにちなんでつけられたと言われている)。

下記Google MAPの赤い印のあたりに写真の「権五郎目洗いの池」という標柱が建っており、その裏の林を下っていくと池がありますが、結構傾斜のある地形なので降りる際は気を付けてください。

筆者が池に行ってみたときは季節柄なのか残念ながら池というより湿地帯のようになっており、枯れ葉や椿の花が積もっていました。また今度出直してみようかと思います。

満面と水を湛える池を見ることができましたら追記で画像をUPしたいと思います。

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