【鎌倉殿の13人】蒲殿ロス必至!源範頼(迫田孝也)の最期をネタバレ!なぜ粛清されたのかを徹底解説!

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では温厚な人柄で御家人たちからも人望のある「蒲冠者」(かばのかじゃ)こと源範頼(みなもとのりより)

6/12日放送回で比企能員(佐藤二朗)の陰謀がきっかけで、ついに蒲殿にも死亡フラグが立ってしまったわけだが、実際の源範頼はどのような人物でどのような最期だったのか?

なぜ範頼は粛清されたのか?

範頼粛清は曾我兄弟の仇討ち事件がきっかけ?

範頼の「あとにはそれがしが控えておりまする」発言

「曾我兄弟の仇討ち」で源頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に入ったとき、範頼は北条政子に「あとにはそれがしが控えておりまする」と発言したことで頼朝に謀反を疑われる。

おそらく範頼としては「鎌倉殿に万一のことがあっても、私が鎌倉をお守りしますのでご安心ください」という意味で言ったのでしょうが・・・なんとも理不尽!

この「あとにはそれがしが・・・」発言だが、「吾妻鏡」にはそういった記述が無いことから、範頼の粛清は北条政子の讒言との説もある。

謀反を疑われ起請文を提出するも・・・

謀反を疑われた範頼は頼朝に起請文を提出するのだが、起請文に「“源” 範頼」と源姓を用いたことで「源姓を名乗るとは何という思い上がりだ!何様のつもりだ!」と頼朝の逆鱗に触れる。これも理不尽極まりない!

【起請文の現代語訳】

起請文について謹んで神仏に誓いを立てます。
私は鎌倉殿の名代としてたびたび戦場へ向かい、朝敵を平定しひたすら忠義を尽くしてまいりました。二心などまったくありません。鎌倉殿の子や孫に対しても、変わらぬ忠義をもっております。しかし今回疑いをかけられたことは残念でなりません。これまでも、そしてこれからも不忠の心などまったくありません。このことは子孫にもよく戒めておきます。もしこの誓いを破ったならば神仏はもちろん、源氏の氏神である八幡大菩薩によって神罰を受ける覚悟です。以上、謹んで申し上げます。

建久四年八月    三河守 源範頼

致命的なミスで頼朝暗殺を疑われる

起請文を提出しても頼朝に許してもらえない範頼は、家人の當麻太郎(たいまたろう)を頼朝の寝所の下に潜伏させ(當麻太郎の独断との説もあり)頼朝の真意を探ろうとしたが、當麻太郎は発見されてしまい捕縛される(暗殺を疑われる)(範頼・當麻太郎ともに頼朝暗殺を否定するが、當麻が範頼配下一の豪傑だったことと今までの疑惑もあり、一層頼朝の疑念が深まる。寝所に豪傑を潜ませれば当然疑われても仕方がないですね・・・)。

頼朝に対して謀反を企んだ一部の御家人に担がれた?

範頼配流後、有力御家人の岡崎義実大庭景義が出家している。この両名は曾我兄弟の仇討ちに関与しているのではないか?と言われている(岡崎と大庭は範頼を担いで謀叛を企んだため頼朝によって出家させられたとの説もある)。北条ばかり優遇されることに不満を抱いたのが謀反を企んだ理由とされている。

範頼の家人に曾我兄弟の異父兄弟がいたため連座して処罰された?

曾我兄弟の異父兄弟にあたる原小次郎という人物が、範頼の連座として処刑されたことが記録されている。原小次郎は範頼の家人だったようで、曾我事件に範頼が関わっていたと疑われた原因になったのかもしれない。

常陸国問題で謀叛を疑われる

常陸国では曽我事件発生後に八田知家(鎌倉殿の13人では演・市原隼人さん)が同国内で勢力争いをしていた多気義幹(たけよしもと)を謀叛を企んでいるとして讒訴、陥れている。

また曽我事件の際、常陸の御家人たちは頼朝を守らず逃げ出すという失態をおかした。

このような常陸国の不穏な動きが、当時常陸国内に影響力を持ち同国の御家人達の調整者的な役割を果たしていた範頼に対する謀叛の疑いになったのでは?という話もある。

範頼が頼朝からの義経追討命令をを断ったため

平泉に逃亡した異母弟・源義経を追討するように頼朝から命じられるが、今まで頼朝に対しては非常に従順だった範頼はなぜかこの命令を断っている。このことも粛清に繋がっていると言われている。

源範頼の最期とは?

頼朝に謀殺された

謀反を確信した頼朝は、範頼を伊豆・修善寺に配流・幽閉し、その後謀殺したと伝わる。

しかし範頼謀殺は、「北条九代記」や南北朝時代に成立した歴史書「保暦間記」には記されているが、「吾妻鏡」には幽閉後の消息は記されていないため真実はよくわかっていない。

範頼生存説

範頼の最後については頼朝には殺されず、「越前(現・福井県)」や「武蔵国横見郡吉見」「武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)」「伊予国(現・愛媛県)上吾川」に落ち延びたという数多くの伝説も残っている。

源範頼の子孫は?

範頼には範円(はんえん)、源昭(げんしょう)という男子がいたが、比企尼による助命嘆願により命は助けられる。

2人は比企尼から武蔵国横見郡吉見庄を分与され、範円の子・吉見為頼の代に「吉見」の姓を名乗るようになる。

子孫は御家人として存続した。子孫のうちの石見国吉賀郡の地頭職として下向した石見吉見氏は、後の江戸時代に毛利氏の家臣となるが謀反の疑いで粛清された。

源範頼の人物像

【人物像】
一般的に「凡庸」「無能」「戦下手」のイメージがつきまとう範頼だが、兄・頼朝からは絶大の信頼を得ていた。

平家追討戦では曲者揃いの坂東武者を束ねる総大将を任され、うまく彼らをまとめ上げているところからも統率力のある優れた指揮官であったことが窺われる。

また、頼朝に逐一戦況を報告、何かあると必ず頼朝の指示をあおぐ「忠実さ」「律義さ」「まめさ」「従順さ」も頼朝から信頼を得た要因だと思われる。

範頼が「凡将」「無能」と記述されているのは14世紀に作成された「源平盛衰記」だけで、創作部分が多い文献であることからも正確性は低いと判断される。

【軍事面】
軍事において「無能」とされる点も、奇襲による華々しい戦火を挙げた義経が目立ちがちだが、範頼率いる本隊の陽動あっての勝利とも言える。

宇治・瀬田の戦い(木曽義仲)、一の谷の戦い(平家)がその例である。頼朝は義経よりも、範頼の人材をうまく活用し全体をまとめあげる能力を高く評価していたとする説もある。

九州平定戦における兵糧不足も範頼のせいにされることが多いが、これは頼朝の準備不足だったという意見もある。

いくら頼朝の弟とはいえ、本当に無能であれば途中で総大将を解任されててもおかしくはない。曾我事件で謀反を疑われるまでは頼朝の絶大な信頼を得ているところからも範頼が優れた武将だったことが窺われる。

源範頼ゆかりの地

源範頼ゆかりの地・寺社仏閣等の一部をご紹介します。
興味がある方は訪ねてみてはいかがでしょうか?

息障院

吉見町大字御所地内にある源範頼の居館跡と伝えられている寺院。

龍泉寺

浜松市南区飯田町にあった範頼の別荘地だったと伝わる寺院。
伊豆修善寺で自刃した範頼の首をくわえた範頼の愛馬がこの地まで走り続け、池のまわりを三回まわって倒れたと言い伝えられている。

上地八幡宮

範頼は平家追討のため西下する途中、上地八幡宮に戦勝を祈願。平家を滅ぼし三河守となった範頼は、元々小祠だった八幡宮に立派な社殿を建立した。

日吉神社(静岡県伊豆市)

伊豆・修善寺の鬼門に当たる場所にある神社で、源範頼が幽閉され住んでいたという「信功院跡」がある。

鎌倉神社(愛媛県伊予市)

源範頼が兄・頼朝から謀反の疑いをかけられ伊豆に流された際、伊予の河野氏を頼って当地に逃れたという伝説がある。拝殿の裏に範頼のものと伝わる墓石がある。

大寧寺と薬王寺(横浜市金沢区)

●大寧寺
修善寺を脱出し浦郷鉈切(横須賀市)に逃れた範頼だったが、鎌倉のしるところとなり、当時瀬ヶ崎にあった太寧寺で自害したという。

●薬王寺
源範頼の別邸のあった瀬ヶ崎に、範頼の菩提を弔うために建立された寺。

霊石山(伝・源範頼墓・鳥取市川原町)

伊豆修善寺で梶原景時の兵に囲まれたため火を放ち自刃。焼け跡の骨を拾った景時は範頼を討ち取ったと報告するも、その骨は討死した範頼の家来のもので、範頼はその間に因幡国に落ち延びたとされている。

源範頼についてのまとめ

【源範頼の粛清の理由】
●曾我事件に関連して謀反を疑われた。
・「それがしが控えております」発言で鎌倉殿の座への野心を疑われた。
・頼朝に不満を持つ御家人が事件のどさくさ紛れに範頼を担ごうとしていた。
・曾我事件後、範頼の影響力の強い常陸の御家人の間に頼朝に対する不穏な動きがあった。
・範頼の家人に曾我兄弟の異父兄弟がいたため事件への関与を疑われた。

●源頼朝の義経追討の命令を断った。

【源範頼の最期】
謀反の疑いで伊豆・修善寺に幽閉。その後、謀殺されたとも自害したとも言われている。

●幽閉後、殺されずに「越前(現・福井県)」や「武蔵国横見郡吉見」「武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)」「伊予国(現・愛媛県)上吾川」に落ち延びたという数多くの伝説が残っている。

【源範頼の子孫】
範頼には範円、源昭という男子がいたが、範円の子・為頼の子孫は「吉見氏」を名乗り、のちに庶流が石見国の地頭職として下向、江戸時代に毛利氏に仕えるも謀反の疑いで粛清される。

【源範頼の人物像】
●一般的に「無能」「凡庸」とされてきたが、平家追討戦、義仲追討戦で坂東武者をうまくまとめ上げているあたりから、優秀な指揮官だったことが想像できる。

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