【 NHK大河 鎌倉殿の13人】畠山重忠(中川大志)がかっこいい! 顔も性格もイケメンだった鎌倉武士の鑑

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中川大志さん演じる清廉潔白な鎌倉御家人・畠山重忠(はたけやましげただ)。中川大志さんは「江~姫たちの戦国」の細川光千代(後の忠利)「平清盛」で源頼朝「真田丸」で豊臣秀頼を演じ、今回で四度目の大河出演となる。

畠山重忠は清廉潔白な人柄で「吾妻鏡」「源平盛衰記」「義経記」で武士の模範として描かれ、「鎌倉武士(坂東武士)の鑑(かがみ)」と言われた。

御家人たちに慕われ鎌倉幕府設立に尽力した功臣として幕府内で重きをなしたが、北条時政の愛妾・牧の方と牧の方の娘婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)の策略によって北条氏に攻められ二俣川で討死してしまう。

そんな悲劇の武将・畠山重忠についてリサーチしてみました。

畠山重忠について

畠山氏は坂東八平氏のひとつ秩父氏の一族。
畠山氏はもともと源氏の家人であったが、平治の乱源義朝が敗死すると重忠の父・重能(しげよし)は平家に従うようになる。

以仁王の令旨を奉じた源頼朝が平家打倒に挙兵すると、父重能が大番役で在京中だったため、当時17歳だった重忠が一族を率いて頼朝討伐へ向かい相模国で三浦氏を打ち破るが、安房国に逃れた頼朝が上総広常・千葉常胤を傘下に収め2万騎以上の膨れ上がると、重忠は祖先・平武綱が頼朝の先祖・八幡太郎義家(源義家)から賜った白旗を持参し武蔵国の長井渡しへ馳せ参じ頼朝を喜ばせたという。

父・重能は平家に従っていたが、以後畠山重忠は頼朝に従うこととなる。
「富士川の合戦」で先陣を任されたのを皮切りに「宇治川の戦い」「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」など頼朝の平家追討の合戦にも従軍し大活躍、頼朝の信任を得る。

畠山重忠の逸話・裏話

重忠の怪力伝説

①関東一の怪力と言われた相撲の力士「長居(ながい)」が「自分に勝てるものなどいない」と言ったことから頼朝から畠山重忠との取り組みを命じられる。重忠はその怪力で長居の両肩の骨を砕いてしまった。

②木曽義仲との戦いで、女武者・巴御前(ともえごぜん)対したとき重忠はその怪力で巴御前の鎧の袖を引きちぎる。
その怪力に敵わないと思った巴は袖を残したまま逃げてしまう。

③頼朝が鎌倉の永福寺を造営した際、庭園に置く3mほどある大石を一人で持ち上げたという逸話がある。発掘調査で実際は1.5mほどの石だったそうだが、それでも怪力でないと持ち上げることは不可能な大きさである。

④一ノ谷の戦いのときの「鵯越の逆落とし」の際、重忠も義経軍に加わっていたが、愛馬の「三日月」に怪我をさせてはいけないと、三日月を担いで崖を下った。

⑤宇治川の合戦の際に平家方の大串重親が組み付いてきたが、宇治川の向こう岸まで投げ飛ばした。

恋ヶ窪にまつわる逸話

鎌倉街道沿いの国分寺・恋ヶ窪宿の遊女「夙妻太夫(あさづまたいゆう)」と恋に落ちた畠山重忠であったが、平家追討の命を受け西国へと出陣してしまう。

夙妻太夫は重忠を想い続けその帰りを待つが、夙妻太夫に横恋慕した男が重忠を諦めさせるために「重忠が西国で討死した」と嘘を教える。

重忠の死を聞き嘆き悲しんだ夙妻太夫は姿見の池に身を投げて死んでしまう。
近くの東福寺には夙妻太夫の死を哀れんだ村人が墓碑として松を植え、「一葉の松」と呼ばれるようになった。

優れた人格の重忠

①重忠が伊勢国で地頭に任じられたときに、重忠の代官が不正を働いたため重忠自身が捕らえられてしまう。
しかしその武勇を惜しんだ頼朝が重忠を赦免するが、重忠は一族を率いて武蔵国の本拠地・菅谷館へ引き上げてしまう。
それを怪しんだ梶原景時に謀反を疑われた際に、重忠へ起請文を提出するように伝えるが「自分には二心は無い。従って言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張る。それを聞いた頼朝は重忠に褒美を与えた。

②重忠は奥州合戦で先陣を命じられていたが、「阿津賀志山の戦い」で三浦義村、葛西清重らが抜け駆けをしようとする。それを知った重忠の郎党が注進するが「先陣は自分が賜っている。ゆえに功績はすべて自分のものだ。まっさきに敵陣へ攻め入ろうとして張り切っている者たちを止めるのは武略の本意ではあるまい」と悠然としていた。

③奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」の戦後処理で、藤原泰衡の郎党・由利八郎を梶原景時が取り調べた際にその傲慢な態度に由利八郎は激怒し何も答えなかった。頼朝はかわりに畠山重忠に取り調べを命じると、礼を尽くして接したため由利は素直に取り調べに答えたという。由利は「先ほどの男(梶原景時)とは雲泥の差である」と言った。

重忠の最期

重忠の息子・重保が酒席で北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と口論になるが、それを恨みに思った牧の方が時政に重忠追討を訴える。

時政の息子・義時と時房は「重忠が謀反を起こすはずがない」と反対するが、ついに将軍実朝から重忠追討の命がくだされる。

息子の重保は鎌倉にいたところを由比ヶ浜に呼び出され、三浦義村に討たれてしまう。

「鎌倉に異変あり」と偽の知らせを受け130騎ほどで鎌倉へ向かっていた重忠だが、数万の大軍が自分に差し向けられたことを知ると覚悟を決めて二俣川(神奈川県横浜市旭区)で北条義時率いる大軍と奮戦。
奮戦虚しく愛甲季隆に射られて討死した(自害したとも)。

重忠死後の畠山氏

人望のあった重忠を殺したことで北条時政と牧の方は御家人たちから恨みを買うことになる。
時政と牧の方は北条政子、義時により追放され、平賀朝雅は殺害された。

重忠の領地と畠山氏の名跡は足利義兼(足利尊氏の祖先)の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻し、継承した。
これによって畠山氏は河内源氏系足利氏一族として存続することになる(室町幕府の三管領・畠山氏)。

畠山重忠ゆかりの地

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