豊臣秀次の墓所「瑞泉寺」に行ってきました!
豊臣秀次切腹事件で粛清され無念の死を遂げた秀次とその一族のご冥福をお祈りしてきました。
自分としては秀次は優秀な人物だったと推測しています。
「殺生関白」等、非常に貶められている秀次の名誉回復、そしてこの悲劇を風化させず後世に伝え続けるためにと思い、この記事を挙げさせていただきます。
豊臣秀次(1568 – 1595)。豊臣秀吉の甥。秀吉の養子、次いで関白となるも、秀吉に子・秀頼が生まれると高野山に追放され、切腹を命じられた。秀吉との関係悪化に伴い粗暴な行動が多く、殺生関白と呼ばれた。二枚目は東京大学史料編纂所蔵の模写。 pic.twitter.com/MBvSVJl8SF
— 肖像画bot(試験運用中) (@botportrait) February 10, 2022
豊臣秀次墓所「瑞泉寺」とは
瑞泉寺の寺名の由来
豊臣秀次公の墓所がある「慈舟山瑞泉寺」は京都府の地下鉄東西線・京阪三条駅の近く、三条大橋のすぐ傍に建つ小さなお寺である。
山号は、高瀬川を往来する船に因み「慈舟山」。
寺名は秀次公の法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」が由来。
豊臣秀次の人物解説
豊臣秀次のプロフィール
名前 | 豊臣秀次(とよとみひでつぐ) |
生没年 | 永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)7月15日(享年28歳) |
名前の変遷 | 万丸→治兵衛(百姓名)→宮部吉継→三好信吉→羽柴信吉→羽柴秀次→豊臣秀次 |
父母 | 弥助(三好吉房)、とも(瑞竜院日秀) |
養父 | 宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉 |
兄弟 | 秀勝、秀保 |
妻 | 正室:若政所(池田恒興の娘) 継室:一の前(菊亭晴季の娘、絶世の美女と言われていた) その他側室多数 |
子 | 仙千代丸、百丸、十丸、土丸、露月院 |
特技 | 剣術・槍術・兵法(疋田景兼より伝授)、弓術(日置流)、馬術(荒木流)、刀剣鑑定 |
趣味 | 連歌、茶道、能楽、古典収集 |
\甲冑武具と刀装/#刀剣展 は「第1章:絵画に見るもののふの姿」「第2章:甲冑武具と刀装具 武家の装いと刀剣文化」「第3章:祈りを託された刀剣 古社寺伝来の名刀を中心に」の3章立て。2章では当館所蔵の《朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足 伝豊臣秀次所用》も堂々展示中!https://t.co/ohyap26Orx pic.twitter.com/i4xRjdJgsD
— サントリー美術館 (@sun_SMA) September 17, 2021
豊臣秀次の評価
「暗愚」「凡庸」であったというのが通説だった豊臣秀次。
しかし近年の研究では相応の力量を持った、秀吉の後継者としてふさわしい人物だったことがわかってきている。
軍事面での評価
・紀伊・四国攻め
・山中城攻め(小田原征伐)
・奥州仕置き
などで武功あり。
唯一の失策は「小牧・長久手の戦い」での中入りが失敗して池田恒興・森長可らが討死した敗戦のみだが、相手が徳川家康ということと、当時秀次はわずか16歳だったことを考慮すれば致し方ない敗戦と言えるだろう。
政務面での評価
・近江八幡では、町割など善政を行い町を発展させた(近江八幡では未だに秀次を名君として称えているいる人々が多い)
・関白として政務もそつなくこなしている
家老衆(山内一豊、堀尾吉晴ら)の補佐を受けていたとはいえ、暗愚では善政を敷くことは不可能である。
文武両道で教養人だった?
また古典や連歌、茶道、能楽に通じ、一流の武術者たちから剣術・槍術・弓術・馬術も学び、剣術は介錯ができるほどの腕前だったとのこと。
ルイス・フロイスからの評価
「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」
「穏やかで思慮深い性質である」
豊臣秀次切腹事件
豊臣秀次が切腹した理由
秀次悪行・悪逆説 | 御稽古(名刀の試し斬りと称して辻斬りを行った) |
院の諒闇中(正親町上皇の喪中に遊興や狩猟をした) | |
比叡山の禁を犯す(女人禁制や禁じられている狩猟等を行った) | |
北野天満宮座頭殺害事件(北野天満宮で出会った座頭(盲人)をなぶり斬りにしたという事件) | |
殺生関白(正親町上皇崩御の諒闇中に狩りをした“不道徳”が原因) | |
秀吉との確執説 | 太閤と関白の権力闘争 |
潔白証明説 | 秀吉には秀次を殺すつもりはなかったが秀次は自らの意思で自刃。現役関白が切腹という前代未聞の大事件を収拾するために「秀次謀反」をでっち上げたという説。 |
石田三成讒言説 | 秀吉に色々と告げ口され、結果切腹に追い込まれたという説。 |
一の台説 | 秀吉が側室に望んだ菊亭晴季の娘で絶世の美女と言われた「一の台」は秀吉の側室になるのを拒む。しかしその後秀次の継室となったことから嫉妬に狂った秀吉に切腹させられたという説。 |
秀次が失脚・切腹した理由については以上のような諸説が多く存在するが、はっきりしたことはわかっていない。
通説となっている「悪行・悪逆説」であるが、近年の研究ではどうも信憑性がないようである。
また「石田三成讒言説」も「秀次の粛清は何者かの陰謀=石田三成」という後世の憶測から出た説のようだ。
秀次一族の処刑
豊臣秀次は文禄4年(1595年)7月15日 、豊臣秀吉の命により高野山青厳寺において切腹。
同年8月2日、豊臣秀次一族は三条河原に引き出されて秀次の首が見下ろす前で処刑された。
処刑されたのは秀次の子どもたち(若君4人、姫君1人)、正室の一の前、そして秀次の側室・侍女・乳母ら合わせて39人。観衆は首が落ちる度に悲鳴をあげ、遺体は大きな穴に次々と投げ込まれた。
そのあまりの惨さに観衆の中から奉行に対して罵詈雑言が浴びせられ、見物にきたことを後悔した者もいたという。
秀次の嫡男・仙千代丸の処刑から最後の於知保(おちぼ)の首がはねられるまで処刑は約4時間に及んだという。
遺体を投げ込んだ穴は埋め立てられ、その上に塚が築かれた。塚の頂上には秀次の首を収めた石櫃が置かれて「畜生塚」「悪逆塚」と呼ばれた。
秀次の首が収められた石櫃には秀次が自刃した「7月15日」の日付と「悪逆塚」の文字が刻まれた。
秀吉がこのような苛烈な行為に及んだ理由については、
秀吉の意に背いて自刃した | 秀吉は秀次を殺すつもりはなかったが秀次は自刃。現役関白が自刃するという前代未聞の大事件を収集するために「秀次が謀反で誅殺された」という事実が必要だため「謀反をでっちあげた」とする説。 |
青厳寺を汚された | 秀次が自刃した青厳寺は秀吉の母・大政所の菩提寺だった。そんな大切な場所を汚されたことに激怒し一族ごと粛清したという説。 |
ともあれ、晩年の秀吉は狂気とも思える行動を多数行っている。その一連の凶行のひとつと捉えても差し支えはないだろう。

秀次一族の処刑が行われた三条河原付近。現在は市民の憩いの場となっている
今日の鴨川!のどかな雰囲気✨
ですが、歴史の面で言うなら有名な処刑場でもあります…関ケ原に破れた石田三成、釜茹での刑に処された石川五右衛門、謀反を疑われた豊臣秀次一族39名…新選組局長、近藤勇の首も処刑後にここに晒されました
歴史の側にあった場所ですね。 pic.twitter.com/NCcX9amT07
— 斎藤ですが! (@saitode_gatotsu) September 19, 2021
瑞泉寺の成り立ち
その後、秀次一族を葬った塚は打ち捨てられた状態になる。
荒れ果てた塚を見て憐れに思った僧・慶順によって塚は庵とされ菩提を弔ったが、鴨川の洪水により流されてしまう。
慶長16年(1611年)、運河作りのために高瀬川を開削する工事をおこなっていた豪商・角倉了以が偶然墓石を発見。
秀次に同情した了以は、浄土宗西山派の僧「立空桂叔和尚」とともに荒廃した墓域を整理、秀次と処刑された一族の菩提を弔う寺「慈舟山瑞泉寺」を塚のあった場所に建立する。
石櫃に刻まれた「悪逆塚」の文字も了以によって消された。
豊臣秀次公の墓(瑞泉寺内)

秀次の首が収められた石櫃がある。
お寺の中に入ると、奥に豊臣秀次公のお墓がある。
豊臣秀次の墓の中段(赤丸の部分)は秀次の御首が収められた石櫃と言われている。「秀次公縁起」に描かれている塚の上に置かれた石櫃がこれである。
秀次の墓の左右には、このような石塔が多数ずらりと並んでいる。
三条河原で処刑された秀次一族39人と殉死した家臣のものと伝わる。
豊臣秀次公ゆかりの地
八幡堀
八幡山麓に豊臣秀次によって
開削された、人工の堀割。
軍事・商業利用を目的として
築かれ、八幡山城廃城後は
水運の要として
町の発展に寄与。
戦後のモータリゼーションの
発展によって衰退したものの、
市民有志による保存活動の
甲斐あって、
近江八幡を代表する
観光名所となっている。 pic.twitter.com/gMvAQAGFqA— 詞-Nori-半分冬休み状態 (@Nori86651955) May 31, 2021
豊臣秀次居館。(滋賀県近江八幡市)
八幡公園の西側の高台が居館跡。
家臣団屋敷跡を通過すると枡形虎口の石垣と居館の石垣が現れるけどほんと見事な石垣。#城巡りずら pic.twitter.com/hPChPD8sLc— 雪風@2/27 虹ヶ咲4th 2DAY (@DD102_YUKIKAZE) November 27, 2021
八幡山城
関白 豊臣秀次銅像 原型
ずっと見たかったので連れてきてもらいました(*^^*)
御城印も😊#村雲御所瑞龍寺 pic.twitter.com/nzcgJf4DLx— 糸 (@mF0atfL3f4eMJEL) November 23, 2021
「全国”お城”の天守台シリーズ」第42弾。
「八幡山城」(滋賀県近江八幡市)は”豊臣秀次”が築城した中世城郭と近世城郭の間的なお城で、総石垣造りで山麓に居館もありました。天守存在も想定され、”天守台”が本丸北西隅に残り、野面積みで隅石は方形石を交互に積上げています。https://t.co/q6jJ3VB1kl pic.twitter.com/4rNtQuYW2Z— めちゃシロスキー (@highhillhide) October 15, 2021
京都
善正寺
豊臣秀次、日秀尼、豊臣一門御廟
こちらは豊臣秀次一門が処刑された際に秘密裏に運ばれた豊臣秀次の首級を葬った所です🤔
その後に豊臣秀吉の姉、日秀尼がここで尼になりここに葬られてます。
写真2は豊臣秀次首塚、豊臣秀勝、秀保の墓
写真4は日秀尼のお墓
マイナースポットです👌 pic.twitter.com/dGozyVnvCX
— koji @Vellonica (@sixx_0202) November 21, 2021
#発掘写真で再びの旅
2011.3.15
和歌山#高野山
光台院お寺の方に案内していただきました🙇♀️
大河・真田丸のずっと前だけに豊臣秀次の胴塚は枯葉の中に寂しく…(撮っていません💦)
秀信のお墓の存在知ってるの珍しいと言われました🥺 pic.twitter.com/rkF4WlNdba
— 志水426714〜🌿 (@yoshitaka1197) June 25, 2020
豊臣秀次自刃の間が残る、高野山の青厳寺。 pic.twitter.com/49qV7ngMhD
— coach330 (@tarezo330) November 5, 2016