【瑞泉寺(豊臣秀次公墓所)】実は名君だった?切腹の理由は?秀次の人物解説と秀次切腹事件を解説

歴史
ダンベルおやじ

農民から天下人(秀吉の出自に関しては諸説あり)まで上り詰めた豊臣秀吉だが、晩年は人が変わってしまったかのような振る舞いが目立つようになった。

自らの甥(姉の子)で後継ぎと定めていた秀次を切腹に追い込み、その一族も女子供に至るまで処刑した「豊臣秀次切腹事件」は、それまでクリーンなイメージだった秀吉に暗い影を落とすことになり、二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)と並び、豊臣家滅亡の遠因とも言われている。

・・・ということで先日ついに「瑞泉寺」に行ってきました!
お寺が閉まるギリギリの夕刻あたりに駆けこんだのであまりじっくり見学できませんでしたが、今自分が歴史的大事件と関りのある場所にいることに非常に感慨深いものがありました。

通常の数倍の額のお賽銭をあげ、無念の死を遂げた秀次とその一族のご冥福をお祈りしてきました。

自分としては秀次は優秀な人物だったと推測しています。
「殺生関白」等、非常に貶められている秀次の名誉回復、そしてこの悲劇を風化させず後世に伝え続けるためにと思い、この記事を挙げさせていただきます。

瑞泉寺とは

瑞泉寺の寺名の由来

豊臣秀次公の墓所がある「慈舟山瑞泉寺」は京都府の地下鉄東西線・京阪三条駅の近く、三条大橋のすぐ傍に建つ小さなお寺である。

山号は、高瀬川を往来する船に因み「慈舟山」。
寺名は秀次公の法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」が由来。

豊臣秀次の人物解説

豊臣秀次のプロフィール

名前 豊臣秀次(とよとみひでつぐ)
生没年 永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)7月15日(享年28歳)
名前の変遷 万丸→治兵衛(百姓名)→宮部吉継→三好信吉→羽柴信吉→羽柴秀次→豊臣秀次
父母 弥助(三好吉房)、とも(瑞竜院日秀)
養父 宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉
兄弟 秀勝、秀保
正室:若政所(池田恒興の娘)
継室:一の前(菊亭晴季の娘、絶世の美女と言われていた)
その他側室多数
仙千代丸、百丸、十丸、土丸、露月院
特技 剣術・槍術・兵法(疋田景兼より伝授)、弓術(日置流)、馬術(荒木流)、刀剣鑑定
趣味 連歌、茶道、能楽、古典収集

豊臣秀次の評価

「暗愚」「凡庸」であったというのが通説だった豊臣秀次。
しかし近年の研究では相応の力量を持った、秀吉の後継者としてふさわしい人物だったことがわかってきている。

軍事面での評価

・紀伊・四国攻め
・山中城攻め(小田原征伐)
・奥州仕置き 

などで武功あり。
唯一の失策は「小牧・長久手の戦い」での中入りが失敗して池田恒興・森長可らが討死した敗戦のみだが、相手が徳川家康ということと、当時秀次はわずか16歳だったことを考慮すれば致し方ない敗戦と言えるだろう。

政務面での評価

・近江八幡では、町割など善政を行い町を発展させた(近江八幡では未だに秀次を名君として称えているいる人々が多い)
・関白として政務もそつなくこなしている

家老衆(山内一豊、堀尾吉晴ら)の補佐を受けていたとはいえ、暗愚では善政を敷くことは不可能である。

文武両道で教養人だった?

また古典や連歌、茶道、能楽に通じ、一流の武術者たちから剣術・槍術・弓術・馬術も学び、剣術は介錯ができるほどの腕前だったとのこと。

ルイス・フロイスからの評価

「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」

「穏やかで思慮深い性質である」

豊臣秀次切腹事件

豊臣秀次が切腹した理由

秀次悪行・悪逆説 御稽古(名刀の試し斬りと称して辻斬りを行った)
院の諒闇中(正親町上皇の喪中に遊興や狩猟をした)
比叡山の禁を犯す(女人禁制や禁じられている狩猟等を行った)
北野天満宮座頭殺害事件(北野天満宮で出会った座頭(盲人)をなぶり斬りにしたという事件)
殺生関白(正親町上皇崩御の諒闇中に狩りをした“不道徳”が原因)
秀吉との確執説 太閤と関白の権力闘争
潔白証明説 秀吉には秀次を殺すつもりはなかったが秀次は自らの意思で自刃。現役関白が切腹という前代未聞の大事件を収拾するために「秀次謀反」をでっち上げたという説。
石田三成讒言説 秀吉に色々と告げ口され、結果切腹に追い込まれたという説。
一の台説 秀吉が側室に望んだ菊亭晴季の娘で絶世の美女と言われた「一の台」は秀吉の側室になるのを拒む。しかしその後秀次の継室となったことから嫉妬に狂った秀吉に切腹させられたという説。

秀次が失脚・切腹した理由については以上のような諸説が多く存在するが、はっきりしたことはわかっていない。

通説となっている「悪行・悪逆説」であるが、近年の研究ではどうも信憑性がないようである。

また「石田三成讒言説」も「秀次の粛清は何者かの陰謀=石田三成」という後世の憶測から出た説のようだ。

秀次一族の処刑

豊臣秀次は文禄4年(1595年)7月15日 、豊臣秀吉の命により高野山青厳寺において切腹。
同年8月2日、豊臣秀次一族は三条河原に引き出されて秀次の首が見下ろす前で処刑された。

処刑されたのは秀次の子どもたち(若君4人、姫君1人)、正室の一の前、そして秀次の側室・侍女・乳母ら合わせて39人観衆は首が落ちる度に悲鳴をあげ、遺体は大きな穴に次々と投げ込まれた。

そのあまりの惨さに観衆の中から奉行に対して罵詈雑言が浴びせられ、見物にきたことを後悔した者もいたという。
秀次の嫡男・仙千代丸の処刑から最後の於知保(おちぼ)の首がはねられるまで処刑は約4時間に及んだという。

遺体を投げ込んだ穴は埋め立てられ、その上に塚が築かれた。塚の頂上には秀次の首を収めた石櫃が置かれて「畜生塚」「悪逆塚」と呼ばれた。
秀次の首が収められた石櫃には秀次が自刃した「7月15日」の日付と「悪逆塚」の文字が刻まれた。

秀吉がこのような苛烈な行為に及んだ理由については、

秀吉の意に背いて自刃した 秀吉は秀次を殺すつもりはなかったが秀次は自刃。現役関白が自刃するという前代未聞の大事件を収集するために「秀次が謀反で誅殺された」という事実が必要だため「謀反をでっちあげた」とする説。
青厳寺を汚された 秀次が自刃した青厳寺は秀吉の母・大政所の菩提寺だった。そんな大切な場所を汚されたことに激怒し一族ごと粛清したという説。
等、様々な説があるがはっきりとした理由はわかっていない。
ともあれ、晩年の秀吉は狂気とも思える行動を多数行っている。その一連の凶行のひとつと捉えても差し支えはないだろう。

秀次一族の処刑が行われた三条河原付近。現在は市民の憩いの場となっている

瑞泉寺の成り立ち

その後、秀次一族を葬った塚は打ち捨てられた状態になる。
荒れ果てた塚を見て憐れに思った僧・慶順によって塚は庵とされ菩提を弔ったが、鴨川の洪水により流されてしまう。

慶長16年(1611年)、運河作りのために高瀬川を開削する工事をおこなっていた豪商・角倉了以が偶然墓石を発見。

秀次に同情した了以は、浄土宗西山派の僧「立空桂叔和尚」とともに荒廃した墓域を整理、秀次と処刑された一族の菩提を弔う寺「慈舟山瑞泉寺」を塚のあった場所に建立する。

石櫃に刻まれた「悪逆塚」の文字も了以によって消された

豊臣秀次公の墓(瑞泉寺内)

秀次の首が収められた石櫃がある。

お寺の中に入ると、奥に豊臣秀次公のお墓がある。
豊臣秀次の墓の中段(赤丸の部分)は秀次の御首が収められた石櫃と言われている。「秀次公縁起」に描かれている塚の上に置かれた石櫃がこれである。

秀次の墓の左右には、このような石塔が多数ずらりと並んでいる。
三条河原で処刑された秀次一族39人と殉死した家臣のものと伝わる。

豊臣秀次公ゆかりの地

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