新皇・平将門 とは?乱の経緯、子孫、強さの秘密、ゆかりの地を徹底解説!

歴史

平将門はどんな人?

939年に平将門の乱を起こしたことで有名な平将門(たいらのまさかど)。
平将門の一族は「桓武平氏」と呼ばれる一族で、平安遷都した桓武天皇の子孫になる。

桓武天皇―葛原親王(桓武天皇の第三皇子)―高見王―高望王―平良将―将門

上の図のように元々は天皇家の血筋という家柄で、将門は桓武天皇の五世の子孫である。

将門の祖父・高望王(たかもちおう)が臣籍降下して「平」(たいら)の姓を賜り平高望(たいらのたかもち)と名乗り、国司として上総(現在の千葉県房総半島辺り)に赴任するが、任期が終わってもそのまま土着し坂東(当時の関東地方の呼び名)に勢力を伸ばす。

将門の父・良将(よしまさ)は高望の息子であったが、鎮守府将軍(征夷大将軍以前の武門の最高栄誉職)に任じられ坂東における平氏の基盤を固め、下総(現在の千葉県北部)で未墾地を開拓して広大な私営田を得る。

良将の子である将門は15~16歳くらいに平安京へのぼり、藤原氏の氏長者である太政大臣・藤原忠平に仕える。人柄を忠平に気に入られたが出世できず、父の死もあり京より領国のある下総へ戻る。

平将門の乱

将門の乱の経緯

平将門の父・平良将の死後、その遺領を巡って伯父の平国香(くにか)平良兼(よしかね)、平良正(よしまさ)らと抗争が勃発。

抗争を繰り返すが度々伯父らの軍勢を破り、ついには国香を敗死させ将門が勝利(このとき常陸の役人で国香や良兼の妻の父である源護の三人の息子も戦死している)。

その後、将門は勢力を拡大し国府と地方豪族の争いに積極的に介入するようになる。武蔵の国司と対立していた興世王(おきよおう)や常陸の国府に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)を匿う。

藤原玄明の引き渡しを要求してきた常陸の国府との対立が高じ、939年に常陸(茨城県)の国府を攻撃して国司・藤原維幾を追放し印綬(国司がその身分の証として天皇から授けられた金印)を奪う。

続いて興世王(一国を奪えば大罪、それならばいっそ関八州をすべて奪いなされと将門を唆す)の進言に従い下野(栃木県)、上野(群馬県)の国府も同様に占拠する。

その後、八幡大菩薩のお告げと称して「新皇」と名乗り、将門の勢力を恐れた武蔵、相模などの国司らも逃げ出し、関東全域を支配した。

新皇神託に関しては、すでに亡くなっていた菅原道真の言葉として伝えられていたと言われている。

最近の研究では、当時常陸の国府に道真の息子・菅原兼茂が赴任していて将門の側近ともつながりがあったことから、信託には兼茂が何かしらの関わっていたのではないかとも言われている。

将門が、当時都で怨霊として怖れられていた菅原道真を利用しようとしたとしてもおかしくはない。

将門が任命した国司は

下野守 平将頼(たいらのまさより、将門弟)

上野守 多治経明(たじのつねあきら、将門家臣)

常陸介 藤原玄茂(ふじわらのしげもち、藤原玄明の一族か)

上総介 興世王(おきよおう、出自は不明だが元皇族の出自らしい)

安房守 文屋好立(ふんやのよしたつ?坂東の豪族か?)

相模守 平将文(たいらのまさふみ、将門の弟)

伊豆守 平将武(たいらのまさたけ、将門の弟)

下総守 平将為(たいらのまさため、将門の弟)

上記を見てもわかるように、常陸と上総のみ介が長官として任命されている。

当時、常陸、上総、上野の三か国は親王(天皇の子、または養子、猶子で親王宣下を受けたものがなれる。天皇の皇子であっても宣下を受けなければ親王にはなれないが太守として治める親王任国であったが、実際に赴任してきたのは次官である介であった。

将門は坂東独立国家を樹立したのだから、当然この朝廷の慣習を無視して常陸や上総も守を任命すべきだが介を長官として任命している。

これに関しては

①今までの慣習通り介を長官とした

②常陸、上総は将門直轄領だった

③朝廷に二心が無いという意味

等々諸説ある。上野のみ守を任命しているのは一貫性がなく謎である。

乱の原因は?

①平良将遺領を巡る坂東平氏一族の争い(当時は長子相続が確立していなかったため伯父の国香や良兼が独断で良将の領地を分割したため争いが始まったという説)

②常陸国の役人だった源護(みなもとのまもる)の娘、あるいは平良兼の娘を巡る争い説(源護の娘を将門が妻に望んだが叶わなかったためという説と、将門が妻にした良兼の娘に源護の息子たちが横恋慕したためという説)

③源護と平真樹(たいらのまき)の領地争いへの介入説。平真樹は将門の強力な同盟者で将門の妻は真樹の娘(君の御前)と言われている。

④源護と源護の縁者 vs 平将門の争い(将門の伯父である平国香、良兼、良正は源護の娘を娶っているが、将門および父の良将は源護の縁者ではないため)

おそらくは上記の事柄が複雑に絡み合って乱に至ったのだろうと推察する。

乱のその後

同時期に藤原純友の反乱も起きたことから朝廷は驚愕し、全国の寺社で祈祷を行うとともに、参議・藤原忠文を征東大将軍(蝦夷征伐の時に臨時に任命された、後の源平時代には木曽義仲も任命されている)に任じ、関東へ向け追討軍を送る。

それと並行して全国の武士や民に太政官符を発布し将門を討ったものには貴族の位を与えるというなりふり構わぬ対応に出た。

これに応じた下野の押領使(国府において軍事警察の任を行う役職)藤原秀郷、平貞盛(国香の子)らが下野で4,000の兵を集める。

将門のもとには貞盛追討のため5,000の兵がいたが、田おこしの時期ということもあり、1,000人程の兵士を残して残りはそれぞれの領国へ戻してしまっていた(当時は兵士の多くが普段は農民だったため)。

将門は時を移しては不利になると考えて先制攻撃をかけるべく出陣するも、副将の藤原玄茂とその部下の多治経明らが将門に報告せず勝手に攻撃を仕掛けたため秀郷の返り討ちに遭い大敗、この敗戦がこの後の将門の命運を決めてしまう。

その後、秀郷・貞盛は石井の王城に攻め寄せて焼き払い、将門は兵を招集するが形勢不利のため集まらず、秀郷・貞盛の軍に藤原為憲(追放された常陸国司・藤原維幾の子)の軍が合流した2,900人の連合軍にわずか400の兵で決戦を挑む。

合戦当初は南風が追い風となり戦いを優位に展開し7倍の連合軍を撃破。

連合軍は逃亡者が相次ぎわずか300ほどに減るが、急に風向きが北風に変わり、それに勢いを得た連合軍は反撃に転じる。将門自身が陣頭で奮戦するも、流れ矢が額(こめかみ説もある)に命中しあえなく討死する(秀郷の放った矢との説もあり)。

将門の首は京へ送られ梟首(さらし首)にされ、ほかの首謀者もことごとく討たれ、坂東の独立国家は僅か二か月で瓦解する。

なお、藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲は約束通り貴族の位を与えられた(秀郷=従四位下、貞盛・為憲=従五位下、どちらの官位も中級貴族層が任命されることが多い)。

ちなみに平貞盛はのちに武家政権の先駆けとなる平氏政権を樹立した平清盛の先祖にあたるのはなんとも皮肉だ。

平 将門、強さの秘密

一般的には朝廷に対して反乱を起こした人物としての印象しか持たない人が多いと思うが、

①鉄の生産

茨城県結城郡八千代町で「尾崎前山遺跡製鉄炉跡」が発見されている。

砂鉄から鉄を精製していた。その鉄を利用して鉄の農具を生産し農民へ分け与え、効率よく土地の開墾を行った。また刀など武具の生産も行う(下記「日本刀」を参照)。

②軍馬の飼育

馬場にて軍馬の生産・調教・鍛錬を行う。

「延喜式」によると、諸国の牧(馬や牛の牧場)として39牧が記録されており、そのうちの18牧が朝廷(兵部省)管轄の官牧だった。

将門の領地がある下総国には馬牧4、牛牧1があり、平将門の領内にも牧(大結牧、長洲牧)があったことから、将門は官牧の管理をする役目をしていたのではないかともいわれている。

「将門記」には、百騎を超える騎馬隊を駆使して合戦を有利に進める描写が描かれている。

③日本刀

それまでの刀は真っ直ぐな刀身の「直刀」が主流だった。

直刀は「突き」に適した刀であったが、将門は騎馬による馬上からの攻撃に適した(敵を切り倒す)刀身が反ったものを作って使用した。

未開の坂東(関東地方の呼び名)の一豪族に過ぎない平将門だが、以上のような先進的思考の持ち主でもあった。上記のような富国強兵策を実施した将門軍(騎馬隊)は相当な強さだったらしく、数倍の敵を幾度の撃破している。

平将門ゆかりの史跡

①国王神社(平将門が祭神) 茨城県坂東市岩井951

将門の三女・如蔵尼が父の三十三回忌に霊木を彫って作った父の像を祠に祀ったのが始まりと伝わり、将門が討ち取られた伝承地に建てられたと言われている。

社務所は正月三が日と将門祭(11月の第2日曜日)のときしか開いてないので、御朱印やお守り、お札が欲しい方はそのときを狙って訪問するといいと思います。

         国王神社入り口(鳥居側)に立つ石碑

    国王神社入り口にある鳥居。駐車場の入口とは反対側にある。

 

社殿はご覧の通り。見事な藁葺の屋根になっている。平日とはいえ参拝客がまったくおらず、ダンベルおやじの貸し切り状態(ひとり歴女っぽい女性が写真をパシャパシャ撮ってたくらい)。

あの平将門を祀った神社にしてはショボい感は否めない・・・正直敷地内の手入れも行き届いておらず、近所の広場レベルだったのはちょっとガッカリした。

 

神社内には平家一族の供養塔もあった。「桓武平氏」「平家先祖代々之霊位」「平将門之霊位」と刻まれていた。ダンベルおやじの母方も桓武平氏の末裔なので合掌してお参りしました。

 

賽銭箱の上には参拝方法が書かれている。賽銭箱にお金を入れてからダンベルおやじもこの通りにお参り!

②延命寺(平将門菩提寺) 茨城県坂東市岩井1101

平将門の菩提寺という寺。石井営所の鬼門除けとして建立された。秀郷・貞盛によって石井営所が焼かれた時、将門の持仏薬師如来像を移し隠され、世の静まるのを待って現在の低湿地に祀られた。「島薬師」と言われている。

国王神社の駐車場を出て右折(坂東市街・千葉県野田市方面へ)してすぐに「延命寺」と矢印の書かれた看板が左手に見えるのでそこを左折して1~2分で延命寺に到着する。

国王神社から歩いても恐らく10分程度で着くのではないだろうか。延命寺の正面、通りを挟んだ場所に大きい駐車場がある。下の山門の写真は駐車場より撮影。

  何度か火災に遭ったようで、山門のみ昔のまま残っているそうだ。

上記の門を入るとすぐに石橋がある。寺の敷地内は人が誰もおらず手入れなども行き届いていない様子。

③石井営所跡 茨城県坂東市岩井1603-2

「石井(いわい)営所」とは、平将門が築いた政庁(政治、軍事などの拠点)の跡地。

家臣の屋敷や兵士たちが集結したときの兵舎や食糧庫もあったらしい。現在の上岩井から中根一帯に広がっていたと考えられている。

将門敗死後に藤原秀郷、平貞盛らに徹底的に焼き払われたため、現在は住宅地の中の小さなスペースに石碑などを残すのみとなっている。国王神社と延命寺の中間地点辺りにあり、営所跡地のちょっと先に専用駐車場があるが車が2、3台駐車できる程度で、場所も初めて行くとわかりづらい。

ダンベルおやじは延命寺駐車場に車を駐車したまま徒歩で向かった(徒歩5分もかからない)。

 国王神社近く(徒歩5~10分)にある石井営所跡。住宅地に写真のような看板が立っている。

住宅地のド真ん中にある石井営所の石碑。あまりに狭い敷地に正直拍子抜けした。民家と民家の間にあるため、敷地内に中に入ってパシャパシャ写真を撮ってると不審者に思われないかちょっと心配になった(笑)

石井営所跡地の石碑の後ろには一面畑が。「兵どもが夢のあと・・・」といったところか。この辺一帯に将門の築いた王城があったのかと思うとロマンを感じますね。

④石井の井戸  茨城県坂東市岩井1627

将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができたという言い伝えがある。

昭和初期まであったという井戸は現在は見受けられない。現在は写真の石や石碑があるのみ。まわりは一面田畑が広がる。

⑤九重の桜 茨城県坂東市岩井2454-2

 京都御所の紫宸殿前にある桜を根分けして移植したものと伝えられています(朱雀天皇の元服の儀が紫宸殿で執り行われ、その恩赦によって将門の帰国が許されました。

南庭の左近の桜を株分けして、将門ゆかりの地に移植されたという)。

九重というのは皇居、または王宮を表す言葉といい、中国の王城の門を幾重にも造ったことから生まれたと記されています。

石井の井戸の先のほうにあったらしいが、ダンベルおやじの勘違いで訪れられず。今度行ってみますので、そのとき詳しくご紹介できれば・・・。

⑥延命院(平将門胴塚) 茨城県坂東市神田山715

討死した将門は、首京都へ送られたが、胴体は密かに運ばれこの延命院に埋葬された。坂東市の神田山(かだやま)付近にある。

この延命院も国王神社、延命寺と同様参拝客はおろか人っ子一人いませんでした(笑)ゆっくり見て回ったり気兼ねなく写真を撮れたのは良かったが、将門の胴塚があるお寺だというの寂しい限りだ。

この写真の奥にある大木(かやのき)の下に将門の胴が埋葬されたとのこと。今も眠っているのであろうか・・・。

胴塚の西側(すぐ真横)には昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔が建てられている。

隠れスポット~北山稲荷大明神

坂東市の辺田(へた)という場所にある「北山稲荷大明神」

平忠常の乱を鎮圧した源頼信が、将門の霊を鎮めるために板碑を立てて供養したという場所(昭和50年(1975年)に地主さんが板碑を発見したらしい)。

「北山の戦い」で将門が討死した場所では?と言われているらしく、「岩井第二小学校入口」交差点横にある「ファミリーマート坂東辺田店」裏手の林の中の道を進むと草むらの中に荒れ果てた鳥居や祠があるようだ。

訪れた誰もが「不気味」「空気が重い」等ブログに書いている。ある霊能者は「馬に乗った将門の霊が見える」と言ったそうだ。

祠の左手に石碑があり、「天慶三年二月十四日戦没 鎮魂 平将門公之碑 終焉の地・遍田(へた)北山古戦場」と刻まれているとのことだが、坂東市など公的機関が建てたものではなく、地主さんが勝手に建てたものらしい。本当に討死した場所なのかは謎である(北山古戦場後については場所は諸説あり)。

将門好きなダンベルおやじも「ここは訪れないと!」と意気込んでいたが、なんとなく一人行くのが怖くて、結局今回の史跡巡りでは訪れなかった(汗)今度行ったときにブログにUPしてみますね。

将門の子孫

・平将国 
将門の嫡子。
将門戦死後、大叔父の良文に護衛され常陸国信田浮島(茨城県霞ケ浦付近)まで落ち延び再興を計ったという。その子孫は信田氏と称した。

・春姫
大叔父・平良文の子で従弟の平忠頼の正室となり、忠常、将常、頼尊を生む。
忠常は千葉氏・上総氏祖、将恒(将常)は秩父氏祖、頼尊の子孫は中村氏を称し、各地で大族として大繁栄する。「相馬野馬追」で有名な江戸時代の相馬中村藩の相馬氏はこの千葉氏の一族で将門の子孫と称している。

・如蔵尼
将門戦死後は奥州に逃れていたが、のちに同地に戻り将門を祀る国王神社を建立した。

・平守明
室町時代に国王神社の周辺一帯の地域を治めていた郡司で将門の子孫と言われている。将門の功績を後世へ伝えた人物と言われている。

 

 

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